青い高架線

待ち人

AM4:40。

AM4:45。

AM4:50。

5分刻みでかけた最後のアラームを止めた私は、昨夜の自分を心底恨んだ。

ベッドの上で仰向けになったまま、薄暗い天井を睨む。カーテンの隙間から入る光はまだ青白い。窓の向こうからは、本土では聞いたことのない鳥の声と、規則正しい波の音だけが聞こえていた。

昨夜、私は確かに早く寝るつもりだった。

シャワーを浴びて、翌日の準備をして、11時にはベッドへ入った。予定通りだった。順調だった。完璧だったはずだ。

問題は、そのあと少しだけスマートフォンを開いたことだ。

送られてきたメッセージへ返信し、そのままメッセージを続けてしまい、気づけばなぜか動画アプリを開いていた。

時刻を確認したときには0時を回っていた。

「……くまができてる……」

目立ってしょうがないというほどでもないが、メイクで隠さねばなるまい。そうでなければオビ=ワンやレックスにどんな小言を言われるやら。

やたら人の顔をよく見て話す二人だ。くまに気がつくだろう。

「あっ!」

時計を見るとぎりぎりだった。夏は日焼け止めも塗らないといけないのだから、めんどくさい。朝の準備に時間がかかる。

私は慌ててシャワールームに飛び込んだ

────

レックスの運転のもと、研究施設を出た。助手席にはオビ=ワン、後部座席には私が座っている。

東の空がようやく明るみ始めていた。昼間とは、まるで別の島のようだった。

昨日は観光客で埋め尽くされていた通りには、人影がほとんどない。
店はどこもシャッターを下ろしたままで、軒先に吊られたマーメイドフェスティバルの旗だけが、朝の風にぱたぱたと揺れている。

歩道の端には、昨夜のものらしいプラコップがひとつ転がっていた。
昼間の熱気が嘘みたいに引いている。

海に囲まれた島とはいえ、早朝の空気は思ったより冷たい。

数センチ空いた車の窓から、朝特有のつんとした冷気が潮の匂いと一緒に流れ込んでくる。

私は紙コップのコーヒーに口をつけ、そのままシートへ少し深く沈み込んだ。コーヒーが口の中で温かい。

移動時くらいなら、少し眠っていても許されるような気がする。

車窓の向こうを、白い壁の建物や背の低いヤシ、まだ人気のない小さなホテルがゆっくりと流れていく。同じカリフォルニアのはずなのに、こうして朝早く知らない町を走っていると、ずいぶん遠いところまで来たように感じた。

「#NAME2#班長、眠そうですね」

運転席からレックスの声がした。

「起きてるよ」

「目が半分閉じてますよ」

「これ以上ないほど全開だ」

「そうでしたか」

前を向いたまま淡々と返される。

助手席のオビ=ワンが、ルームミラー越しにこちらを見た。

「昨夜は早く寝たんだろうな、#NAME1#?」

「もちろん」

「何時に?」

「……10時にベッドに入りました」

「質問に答えなさい」

私は窓の外へ顔を向けた。

ちょうど建物が途切れ、水平線の端が薄い橙色に染まり始めていた。
まだ暗い海面に細長く光が伸びている。

「朝焼けが綺麗ですね、ケノービ教授」

「話題を変える技術だけは着実に上達しているな」

レックスが小さく笑った。

「笑うところじゃないぞ、レックス」

「いやあ、教授は本当に#NAME2#班長を気にかけていらっしゃるのだなと思って」

「今の会話からなぜそう思った?」

「だって、ほかの研究員には……」

レックスが何か続けていたが、私はもう半分も聞いていなかった。

彼らの声がエンジン音とタイヤの振動に混じって遠ざかっていく。
オビ=ワンが何かを言い返し、レックスがまた笑った気がした。

私は紙コップを胸元に抱えたまま、窓に頭をあずける。

話し声はまだ前の座席から聞こえていたけれど、もう何を話しているのかまでは分からなかった。

ただ、ときどき自分の名前だけが聞こえる。

たぶん、また二人に何か言われている。

車はまだ眠っている町を抜けて、窓には朝の海が広がり始めた。朝日に照らされる前の海は、昨日見た澄んだ青よりも濃くて深い青だった。

まだ滞在2日目。あと何日かすれば、この景色にも慣れてしまうのだろう。そう思うと、今しか見られないもののような気がして、私はぼんやりと流れていく海を眺め続けた。

────

今日最初に確認するのはサウス・コーヴだった。

昨日、あのダイバーが言っていた場所だ。

数日前から小型のクラゲが増え、昨日の朝には表層から減り始めていた。

こちらの前日の観測でも確かに増加は確認されていたが、その男はさらに以前から変化を知っていたらしい。

もちろん彼の話そのものを調査データとして採用するわけにはいかないが、確かめる価値はある。

車を降り、岩場まで下る。

潮は大きく引いていた。
普段なら海中に沈んでいる岩肌が広く露出し、その間に大小の潮溜まりが点々と残っている。

私は機材を置き、水温計を取り出した。

「#NAME2#班長、こちら22.6です」

「昨日より低いな。記録お願いします」

「了解」

レックスがクリップボードへ数字を書き込む。

私は浅い潮溜まりへしゃがみ込み、水面を覗いた。

「……いる」

小さな透明の傘が、岩陰でいくつも揺れていた。

一匹。二匹。

その奥にも。

「教授」

 少し離れた場所にいたオビ=ワンを呼ぶ。

「昨日の記録より多いですね」

オビ=ワンが近づき、私の横から覗き込んだ。

「風向きも変わった。沖から残った個体が入り込んだ可能性はあるな」

「でも、あの人が言ってた通りだ」

「ああ。昨日#NAME1#が遭遇したダイバーか」

「はい」

私は採集瓶を海水で満たした。

「南からの暖水が弱かったことも、あとでデータ見たらそれっぽかったですね」

「今のところはな」

オビ=ワンは淡々と答える。

「だからといって、昨日の証言すべてが正しいと決まったわけではないよ。偶然一致した可能性も忘れないように」

「分かってますって」

「ならいい」

そう言いながらも、教授は少し考えるように沖へ目を向けた。

私はその横顔を一度だけ見て、再び採集へ戻った。

────

調査が一段落した頃には、空はすっかり明るくなっていた。

潮も少しずつ戻り始めている。

レックスたちは器材をまとめ、車へ運んでいた。

「#NAME2#班長、20分後に出ますよ」

「分かった、先に行ってて。最後にこっちだけ確認する」

「落ちないでくださいよ」

「レックスまで教授みたいなこと言うな」

「3年前の実績がありますから」

「たった1回の事故で3年間も言われ続ける!」

レックスは肩をすくめ、そのまま岩場を上がっていった。

私はしゃがみ込み、岩肌へ視線を落とす。

ごつごつした濡れた岩肌。小さな貝やフジツボがびっしりと張りついている。

その中の一つへ手を伸ばしたところで、

「今日はそれを集めるのか?」

聞き覚えのある声がした。

顔を上げる。

少し先の岩陰から、濡れた金色の髪が覗いていた。

「……えっと」

すぐに名前がでなかった。

そうだ。アナキン。アナキン・スカイウォーカー。

昨日遭遇した地元のダイバー。彼は今日も海の中に浸かっていた。

「やあ、#NAME1#」

昨日と同じ調子で口角を上げる。顔を斜めに傾け、余裕の笑み。

「またいたのか」

「君もだよ、#NAME1#。でも、また会えてよかったよ。昨日ここを確認するって言ってたから」

さらりと言われ、私は少しだけ眉をひそめた。確かにそう言ったが、本当に会うとは思っていなかった。今の時刻は早朝だ。

「こんな時間で会うとは思わなかったけどな」

「まあ、僕もこっちに用があったし」

確かにそんなことを言っていたような気がする。アナキンは何でもないことのように笑っていた。

まあ、彼の仕事の関係で早くから潜らねばならないのかもしれない。深くは聞かず、私はそれより別に伝えたいことがあった。

「それより、昨日の話。当たってたぞ」

「何が?」

「クラゲのこと」

「ああ」

 アナキンは当然のような顔をした。

「言っただろ?」

「南からの流れが弱かったっていうのも、データ上はかなりありそうだった」

「そう」

「……毎日潜ってるんだな」

「だいたい」

「仕事なのか?」

「仕事?」

アナキンは不思議そうに聞き返す。

「ほら、ダイビングガイドとか。漁とか」

「漁……そうだな。今は違うけど」

「じゃあ、今は何を?昨日は用があるって言ってたな」

アナキンはすぐには答えなかった。
波に身体を預けながら、ふう、と息をつく。それから沖の方へ視線を向けた。

「人を待ってるんだ」

「ああ、待ち合わせ?」

「……まあね」

「こんな朝早くから?」

「いつ来るか分からないんだ」

「ずいぶん気長な待ち合わせだな」

私が呆れたように笑うと、アナキンもかすかに目を伏せて笑った。

「そうかもな」

それ以上尋ねるほどのことでもない。おそらくお互いの行動範囲の時間と場所のうちで合流するような形の待ち合わせをしてるのだろう。

そう考えていると、ふとアナキンが私の手元を指差す。

「#NAME1#、それは何?」

「これ?」

私は岩に張りついた小さな貝へ指を向ける。

「カサガイ」

「へえ。捕まえて食べたりするけど、よく知らないんだ」

「ええ……」

このへんのダイバーは、生態を知らないものでもいろいろ捕まえては食べてみたりするのだろうか。有毒性など、気にしないのだろうか。私はちょっと驚きつつも、殻の周囲を指先で示した。

「まあ……種類によるけど、結構面白い」

「何が?」

「餌を食べるために岩の上を動き回って、それから元いた場所へ戻るやつがいるんだよ」

アナキンの視線が、私の指先へ落ちる。それから興味深そうに岩肌に頬杖をついてこちらを見上げる。

「戻る?」

「ああ。ホームスカーって言うんだ。いつも同じ場所に帰ってくる」

「どうして?」

「そこが身体に合ってるからかな。岩の形に合わせて殻が密着するようになる。乾燥から身を守るのにも都合がいい」

アナキンはしばらく黙ってカサガイを見ていた。

「じゃあ、ここが彼の帰る場所?」

「本人に聞いたわけじゃないけど、まあ、そういうことになるかな」

「どれだけ遠くに行っても?」

「いや、そんな大旅行はしないよ。せいぜい岩の上を動き回る程度だ」

「で、戻るのか」

「そう。律儀だよ」

 私は立ち上がり、膝についたわずかな砂を払った。

「君にもある?」

「何が?」

「帰る場所」

あまりに唐突だった。

「そりゃあるよ」

あっけらかんと答える。

「どこ?」

「本土」

即答する。

「ここは仕事で来てるだけだからな。調査とか、いろいろ終わったらそっちに帰るよ。家も向こうだし」

「……そう」

アナキンは海面へ目を落とした。

「何だ?」

「別に」

さっきまでの軽い調子がほんの一瞬だけ消えたような気がした。

けれど、次に顔を上げた時には、もういつもの笑みを浮かべている。

「その場所に帰るのは、どんな感じ?」

「どんなって……」

聞かれて初めて考える。

「普通だよ。帰ったら帰ったで仕事もあるし、面倒なこともあるし」

「それでも帰る?」

「そりゃ帰るよ」

アナキンは不思議そうに瞬きをした。

そのとき、遠くからレックスの声が飛んできた。

「#NAME2#班長!本当に置いていきますよ!」

「やべ」

腕時計を慌てて確認する。

「もう行かないと」

立ち上がろうとしたとき、ぐっと手首を掴まれる。

「うわ!」

とっさに空いている手を岩肌につき、身体を支える。

危なかった。危うくそのまま海へ引き込まれるところだった。

「おい、あぶな……」

「家に帰るのか?」

注意の言葉を口にしかけて、すぐにアナキンに遮られた。

手首を掴む力の強さに反して、いたって普通の声色。しかしどこか早口だった。

「へ?い、いや。……研究施設だけど。家じゃなくて」

アナキンは私の答えに、じっと私を見たまま黙っている。

沈黙が痛い。

「そうか」

アナキンはまばたきもせず、ただそう呟く。

それからようやく、ゆっくりと、私の手首を離す。強い力だったので、掴まれていた部分がまだわずかに白い。濡れている。手の跡がじんわりと消えていった。私は少し動揺しつつ立ち上がる。

「えっと。じゃあ、行くから」

なんとなく気まずい思いをしつつも声をかけ、ケースを持つと踵を返す。数歩進んだところで、背後から声がした。

「また来る?」

振り返る。

アナキンは同じ場所にいた。

「この辺の調査はまだ続くから、まあ」

「そうか」

彼は静かに口角を上げる。やっと彼に表情が戻ったような気がした。

「なら、#NAME1#とはまた会えるだろうね。……ところで」

そのままアナキンが、ふと思い出したように口を開く。

「さっきから君を呼んでるのは誰なんだ?」

「ああ、レックス?」

私は岩場の向こうを振り返った。

「一緒に来てる研究チームの人だよ」

「君の連れ?」

「まあ、そう」

「仲間?」

「そうだな」

アナキンは少し考えるように目を細めた。

「恋人?」

「なんでそうなるんだよ」

思わず顔をしかめる。

「同僚だ。同僚。というか、私の班の研究技術員」

「ふうん」

「変なこと聞くな」

「何が変なんだ?」

アナキンは怪訝にこちらを見上げる。失礼まではいかなくとも、気まずい質問をした自覚がないかのようだった。悪びれた様子もなければ、からかいで聞いた雰囲気でもない。

妙な男だ。そもそも、さっきはいきなり手首を掴まれた。やはり少し変わった奴なのかもしれない。

そう考えている間にも、アナキンは何か言いたそうにこちらを眺めていた。

「じゃあ――」

「#NAME2#班長!」

今度はずっと近くからレックスの声がした。

「もう本当に行きますよ!」

「あ、ごめん!」

岩場を上がってこちらへ歩いてくるレックスに、私は片手を上げる。

「ちょっと話してて。昨日の地元のダイバーから、追加で情報収集を……」

言いながら、私はアナキンの方を指差した。

「……して……」

言葉が止まる。

そこには誰もいなかった。

「何言ってるんですか?」

レックスが怪訝そうに眉を寄せる。

「誰もいませんけど」

「……いや、さっきここに」

私は海へ視線を落とした。さっきまでアナキンが身体を預けていた岩だけが、水面から黒く突き出している。海は驚くほど澄んでいた。水底まで見える。

揺れる海藻。
白っぽい砂。
ところどころに沈んだ黒い岩。

その間に、人影はない。波紋すら残っていなかった。

「潜った……のかな」

口に出してみる。けれど、水面には泡ひとつ上がってこない。

少なくとも、私がレックスへ振り向いてから数秒しか経っていないはずだった。

「#NAME2#班長?」

「ああ、いや」

私はしばらく海を眺めていたが、やがて首を振った。

「……ごめんごめん、何でもない。行こう」

ケースを持ち直し、レックスの後を追う。

数歩進んでから、もう一度だけ振り返った。

朝の光を受けた海が、静かに岩の間を満たしている。

まるで最初から、そこに何もなかったかのように。

(待ち人)

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