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船を降りると、むわっと重たい熱気がまとわりついた。
海の上の涼しさとはまったく違う。
桟橋には潮と燃料の匂いがこもり、頭上ではカモメが騒がしく鳴いている。船内の冷房に慣れた身体には、照り返す日差しが容赦なかった。
足元に置いた荷物へ手を伸ばす。
小さな鞄を肩に掛け、器材の入ったケースを持ち上げようとしたところで、横から伸びてきた手が先に取っ手を掴んだ。
「これは私が持とう」
オビ=ワンはそれだけ言って、重い方のケースを持ってそのまま桟橋を歩き出す。
親切だ。私はありがたく軽い鞄だけを持ち、その後を追うことにする。
港の先では私たちより数日早く島へ入っていた研究チームのスタッフたちが、研究施設のシャトルバスへ機材を積み込んでいた。
フェリーが到着してから来てくれて、それから結構な時間、船着き場とバスの間を往復していたらしい。
見覚えのある姿を遠目に見つける。
レックスだ。
帽子の下から汗に濡れた短い髪を覗かせ、Tシャツの背中をすっかり濃い色に変えている。片手にはクリップボード、もう片方には水筒を持っていた。
レックスはフィールドワークを専門とする研究技術員で、年齢も現場経験も私より上だ。ただし今回、彼が担当する採集班の責任者は、一応、私ということになっている。
私は彼のそばまで近寄り、声をかけた。
「レックス。汗だくで、すでに少し日焼けしてるな。1週間くらい島にいる人みたいだぞ」
「笑っている場合じゃありませんよ、#NAME2#班長。あなたも十五分後にはこうなります」
そう言いながら、彼は額の汗を腕で拭った。日焼け止めが白く筋になっている。
その後ろでは別の研究員が、積み上げた発泡スチロール箱の数を数え直していた。隣のそのまた誰かが無線で施設側と話している。せわしない現場だ。
「ご苦労だった、レックス」
オビ=ワンは私の前に出ると、レックスに声をかける。レックスは姿勢を正して軽く頭を下げた。
「ケノービ教授、お疲れさまです。機材はほとんど積み終わっています。残りはあちらで確認しますから、我々は先にバスへ乗り込みましょう」
「ああ、では向かおう」
レックスは頷くと、手にしていた水筒を一口あおり、私たちと並んでバスの方へ歩き出した。
―――
久しぶりに足を踏み入れたサンタカタリナ島は、すっかり祭りの準備の賑わいに染まっていた。
港沿いには青や緑の旗がいくつも渡され、街灯には貝殻や人魚の尾を模した飾りがぶら下がっている。通りの向こうでは、巨大な張りぼての人魚を数人がかりで運んでいた。
開催はまだ数日先のはずなのに、人の数は去年より明らかに多い。
潮と燃料の匂いに混じって、どこからか甘い果物の香りが漂ってきた。
香りを追って視線を向けると、桟橋の向こうに何台かのフードトラックが並んでいる。そのうち一台の窓口には、冷たい水滴をまとったマンゴースムージーの写真が大きく貼り出されていた。
「教授、あれ買ってくださいよ」
私は立ち止まり、オビ=ワンへ声をかける。
彼は写真を一瞥しあきれたように肩をすくめる。
「却下だ」
「えっ」
「#NAME1#、この長蛇の列の待ち時間にあのマンゴースムージーの味が値すると思うのか?」
隣を歩いていたレックスも、列の最後尾を確認して顔をしかめた。
「おっと……#NAME2#班長、今から並んだらバスを一本見送ることになりますよ」
誰も味方がいない。しぶしぶあきらめて再び歩き始める。
オビ=ワンは私の未練がましい視線に気づいたのか、小さく息をついた。
「今日の作業が予定どおり終わって、夕方にもまだ営業していたらな」
「本当ですか?」
「予定どおり終われば、だ」
強調された。
「もちろん終わらせます」
「#NAME2#班長のその自信がどこから来るのか、いつも不思議ですよ」
レックスの冷静な声を聞き流し、私はもう一度スムージーの写真を振り返った。
夕方の自由時間まで営業していることを祈ろう。
研究施設へ着いてからは、そんなことを考えている暇もなかった。
荷物を降ろし、採集器具の数を確認し、保冷箱を整理する。昼食を挟んだあとには簡単な打ち合わせがあり、そのまま各班に分かれて午後の調査へ出ることになった。
―――
私の担当は、町から少し離れた北側の岩礁帯だった。
島はバケーションシーズンに入り、港の周辺には本土から来た観光客が増えている。とはいえ、海水浴場から外れたこの辺りまで足を延ばす者は少ない。
砂浜というより、黒っぽい岩と小石の間にわずかな砂地が残っているだけの海岸だ。泳ぐには不向きだが、岸近くへ流れ込む小型のクラゲを採集するには都合がよかった。
午後の満潮。
沖合には数人の泳客が浮かんでいるものの、波打ち際にいるのは私だけだった。
レックスは少し離れた場所で別の調査員と水温計の確認をしている。オビ=ワンはさらに北側の調査地点へ向かっていた。
私はゆっくりと膝まで海へ入り、透明な採集瓶を傾けた。
水面近くを漂っていた小さなクラゲが、海水ごと瓶の中へ滑り込む。
傘の直径は二センチほど。透明な体には、かすかに赤褐色の筋が走っていた。瓶を陽に透かす。
似た個体は先行班が今週だけですでに七匹採っている。ただし、今日は水温が昨日の報告より一度以上高い。風向きも違う。あとで記録と照合する必要がある。
「やあ」
すぐ近くから声がした。
私は肩を跳ねさせ、危うく瓶を落としかけた。振り向く。
真後ろの岩に、ひとりの若い男がいた。
海から突き出した平たい岩に両腕を預け、頬杖をつくようにしてこちらを見ている。胸から下は海に隠れていた。
濡れた髪は額にかかり、強い日差しの下では暗い金色にも、明るい茶色にも見える。
いつからそこにいたのだろう。
水音ひとつ聞こえなかった。
「……どうも」
私は無意識に瓶を胸元へ引き寄せた。
男はそんな警戒など気にした様子もなく、興味深そうに首を傾げる。
「なぜ、いつもクラゲを瓶に集めているの?」
「……いつも?」
「ああ。前にも見た」
「いつ?」
「何度か」
答えになっていない。
今年この島で採集をするのは今日が初めてだ。その前となれば、去年まで遡る。
私は改めて男を観察した。
二十代半ばくらいだろうか。まず目につくのは、深い海のような青い目だった。わずかに垂れた目元なのに、こちらを斜めに窺う視線のせいか妙に鋭く見える。高い頬骨に、まっすぐな鼻筋。濡れたダークブロンドの髪が額に張りついていた。
純粋に顔がいいというのもあるが、それだけではない。妙に印象に残る顔だ。
男は片方の口角を持ち上げた。こちらが戸惑っていることを面白がっているような笑い方だった。
こんな人気の少ない岩場で、知らない女にためらいなく声をかけてくる。
観光客、あるいは島民だろうか。
「なんでクラゲを集めるって……研究に来てるから」
「研究って?」
「クラゲを調べること」
「クラゲを?」
男は一瞬きょとんとしたあと、鼻で笑った。
「ハッ。調べて、どんないいことがあるんだ? これは食べられる、こっちは不味い、とか?」
「食用の研究じゃない」
「じゃあ毒?」
「それだけでもない」
「それなら何を見る?」
口調は軽い。
本当に興味があるのか、ただ暇つぶしに話しかけているだけなのか分からない。
「種類とか、成長の仕方とか。海水温や潮流との関係も調べる。いつ、どこに、どれくらい現れるかも記録する」
どうせ退屈そうな顔をするだろうと思っていた。
ところが男は顎に手を当て、少し考え込んだ。
「今年は遅かった」
「え?」
「増え始めるのが」
男は海面へ顎を向ける。
「その小さいの。去年は、月が今より細い頃にはもっといた。今年は南から来る暖かい水が弱かったから、十日……十二日くらい遅れた」
私は黙った。
男はそれを質問の催促と受け取ったらしい。
「でも数日前から急に増えた。昨日は向こうの入り江にたくさんいたよ。今朝にはだいぶ沖へ戻ったけど」
「……向こうって?」
「崖の裏」
「サウス・コーヴ?」
「君がそう呼ぶなら、たぶん」
私は瓶を持ったまま男を見つめた。
数日前から島へ入っていた先行調査班が、サウス・コーヴで個体数の増加を確認したのは昨日の午後だ。そして今朝の観測では、確かに表層の個体が減っている。
まだ研究所内でも整理されていないデータだった。
「毎日潜ってるのか?」
「潜る?」
「ダイビング」
「ああ」
男は一度だけ曖昧に目線を逸らし、それから面白そうに笑った。
「そんなようなものかな」
やはり地元のダイバーなのだろう。
漁師やガイドなら、潮や生物の変化に詳しくても不思議ではない。
そう考えたところで、足元を小さな影が漂った。
「あ」
先ほどのものより一回り大きなクラゲだった。傷も少なく、傘の形もきれいに残っている。
私が採集瓶へ手を伸ばすより早く、男が岩から片腕を下ろした。
「こっちの方が状態がいいよ」
そのまま、素手を海へ突っ込む。
「ちょっと」
男はクラゲの触手を指でつまみ、そのまま持ち上げた。
「おい!」
「何だよ?」
「何だよ、じゃない。素手で掴むな!危ないから!」
男は自分の手とクラゲを見比べる。
本気で何を注意されたのか分かっていない顔だった。
「そんなに痛くない」
「痛いかどうかの問題じゃない、その種、弱いけど普通に刺胞あるんだぞ。いいから放せ」
「でも、君はこれが欲しいんだろ?」
「瓶を出すから、その中に入れてくれ」
私は慌てて新しい採集瓶を開けた。
男は素直にクラゲを海水ごと滑り込ませる。
手のひらには赤みひとつない。
「……刺されなかったのか?」
「刺されたよ」
「ほら!」
「でも痛くない。言っただろ」
男はけろりとしていた。
慣れている人間なら、こんなものなのだろうか。
私は腑に落ちないまま瓶の蓋を閉めた。
「君は、なぜこれを?」
「なぜって?」
「理由だよ。どうして、そんなものを調べる?」
私は口を開いた。
仕事だから。
最初に浮かんだのは、それだった。
ケノービ教授が率いる調査プロジェクトの一員として島へ滞在し、決められた地点で採集し、個体数や海水温を記録する。それが自分の役割だ。
けれど、口にする直前で引っかかった。
このプロジェクトについていきたいと言ったのは自分だった。
研究室に募集が貼り出されるたび、誰よりも早くオビ=ワンのもとへ駆け込んだ。島での長期滞在も、早朝の観測も、不便な研究施設での暮らしも承知のうえで、それでも参加させてほしいと頼み込んだ。
仕事だからではない。
仕事になるより前から、やりたかった。
「……知りたいから」
自分でも確かめるように答える。
男が瞬きをした。
次の瞬間、声を上げて笑った。
「ははは!クラゲを……えっ?ハッ……」
「……なぜ笑う」
「いや、すまない」
口では謝りながら、まだ愉快そうだ。
「それで?全部知ったら、どうする?」
「全部?」
「クラゲのこと」
「全部なんて分からない」
「そう?」
「一種類だけでも、分からないことはいくらでもある。何を食べて、何に食べられるのか。どうして急に増えるのか。どこで冬を越すのか。水温が変われば、どこまで耐えられるのか」
「じゃあ、それが全部分かったら?」
「全部分かったと思った頃には、たぶん別の分からないことが見つかる」
また笑われると思った。けれど今度、男は笑わなかった。
岩に肘をついたまま、じっとこちらを見ている。
「終わらないんだな」
「たぶん」
「それでも続ける?どうして?」
「だから、知りたいから」
私がそう答えると、男はしばらく黙った。
沖から少し大きな波が入り、岩にぶつかる。
白い飛沫が男の肩から顔まで覆った。
私は反射的に目を細めたが、男は顔を背けもしなかった。濡れた髪を後ろへ払っただけで、すぐにこちらを見る。目に海水が入らなかったのだろうか。
一瞬そう思ったが、話はもう続いていた。
「君たちは、役に立つから調べるんだと思ってた」
「役に立つこともあるよ」
「薬を作るとか?」
「それもある。物質や毒の仕組みが医学に応用できるかもしれないし、生態系の変化を知る手がかりにもなる。漁業に被害を出す種類なら、発生を予測できた方がいい」
「なら、やっぱり役に立つからじゃないか」
「役に立つか分からないことも調べるよ」
「なぜ?」
「面白いから」
男は息を漏らすように笑った。
「役に立たないかもしれないことに、何年も使うのか。生涯は短いのに」
「役に立たないとは限らない」
「もし役に立たなかったら?」
「そのときは、役に立たなかったってことが分かる」
「それだけ?」
「それも結果の一つだ」
男は呆れたように顎を腕へ載せた。
「君たちは、ずいぶん暇なんだな」
「海からずっと人を観察していた暇人に言われたくないんだが」
「僕は君を見てたんだ」
あまりに自然に言われ、私は一拍遅れて顔を上げた。
「……なんで?」
「知りたかったから」
男は、さきほどの私の答えをそのまま返した。
今度はこちらが言葉に詰まる番だった。
「……知らない人間に、よくそんな無警戒に話しかけられる。私が危ない奴だったらどうするつもりだったんだ?」
「まあ、クラゲを瓶に集めてる時点で、ちょっと危ない人間ではあるな」
「そういう意味じゃない」
私の反発に男は再びおかしそうに笑ったあと、真っ直ぐにこちらを見た。
「大丈夫だよ」
「何が?」
「君は僕を傷つけられない」
自信というより、ただ事実を述べるような口調だった。
「……意味がわからない」
私は軽口を返すが、完全にこの謎の島民との会話で自分のペースを崩されていた。
男の身体は胸から下まで海中に沈み、寄せる波にゆっくり揺れている。
すぐ近くにいる。それなのに、水面より下がどうなっているのかは、まるで見えなかった。波が岩の隙間を抜け、足元の小石を転がしていく。
男はふと思い出したように顔を上げた。
「ところで、僕はアナキンだ。アナキン・スカイウォーカー」
そういえば、これだけ話しておいて名前すら知らなかった。
「#NAME1#・#NAME2#だ」
アナキンは一度その名前を口の中で転がすように繰り返し、それから笑った。
「クラゲを集めて研究をしてる#NAME1#」
「いやまあ……普通にただの大学院生」
腕時計を見る。思ったより時間が経っていた。
「まずい。そろそろ戻らないと」
「帰るの?」
「仕事中なんだ。必要以上に長く消えてると、さぼってると思われる」
採集瓶をケースへ収め、波打ち際へ戻ろうとする。
「じゃあ、またね。#NAME1#」
背後から当然のように言われ、足を止めた。
「また?」
振り返ると、アナキンは相変わらず岩に腕を預けたまま、楽しそうにこちらを見ている。
「明日も来るんだろ?」
「ここには来ないかな。明日はサウス・コーヴを確認する予定だから。さっき言ってた入り江。教授が行くって言えばだけど」
アナキンは少し考えて、それから笑った。
「じゃあ、また会える」
「なんでそうなるんだよ」
「僕もそっちへ行くから。用があるんだ」
「……いたら多分」
「いるさ」
アナキンは笑った。
そのまま岩から身体を離す。
「また今度」
次の波と一緒に、彼の姿が水面の下へ沈んだ。私は一瞬その場に立ち止まった。
当然、すぐ近くから顔を出すものだと思った。
10秒。
20秒。
……1分。
波の向こうを見ても、金色の頭はどこにも浮かんでこない。
「……潜水が趣味ってレベルじゃないな」
小さく呟いてから、私は採集ケースを抱え踵を返す。地元には、ずいぶん変わったダイバーがいるらしい。そのときの私はそれ以上深く考えなかった。
研究施設へ戻れば、記録しなければならないデータが山ほど待っていたからだ。
(青い島)
