青い高架線

青い島

甲板へ続くドアを開けると、視界が青に包まれた。

海に船影はほとんどない。空も雲ひとつない晴天で、上にも下にも海が広がっているようだった。遠くの水平線ではふたつの青がぼんやりと溶け合っている。

私たちの乗る船は白い航跡を残しながら、その真ん中を進んでいた。

私は手すりを掴み、風に煽られながらゆっくりと身を乗り出す。目を凝らしていると、遥か前方に薄い島影が見えた。

サンタカタリナ島。

カリフォルニア沖のチャンネル諸島に浮かぶ、今回の調査地だ。

「#NAME1#」

すぐ後ろから声がして、私は肩を跳ねさせた。

振り向くと、いつの間にかオビ=ワンが立っていた。風とエンジン音のせいで、彼が近づいてきたことにまるで気づかなかった。

「君は泳ぎが苦手なわりに、海に対する警戒心が驚くほど薄いな」

教授は船室の外壁によりかかり、あきれたように腕を組んでいた。

「落ちませんよ、ちゃんと手すり掴んでます。ちょっと身を乗り出しただけで」

「そう言って、初めて島へ来た年に岩場から海へ落ちたのは誰だったかな」

「あれは魚が急に跳ねてびっくりしたからですよ」

「海で魚が跳ねるとは、確かに誰も予想できなかったな」

「嫌味だ!」

「しかも君は泳げない」

「でも奇跡的に波で岩の上まで戻されましたから」

オビ=ワンは何とも言えない顔をした。

「……その奇跡をもう一度期待しないことだ」

私はしぶしぶ身を乗り出すのをやめた。

「これで満足ですか?」

「ああ。島へ着く前に私の院生を一人失いたくないからな」

そう言うと、教授もゆっくりした歩幅で私の隣に立ち、向こうの島影を見つめた。

彼の髪が潮風にあおられる。

オビ=ワン・ケノービは、若くして海洋生物学の第一線にいる研究者だった。

私は大学院で彼の指導を受けながら、主にクラゲ由来のタンパク質について研究している。

彼とサンタカタリナ島に来るのは、これで三度目になる。

一度目は、彼の後ろをついて回り、言われた数字を記録するだけだった。

二度目にしてようやく、自分の採集容器を持たせてもらった。

そして今回は、教授の調査計画の一部を任されている。採集も観測も、誰かの手元を見て覚えるのではなく、自分の判断で動くことを許されていた。

前の二回とは違う。

もっとも、普段の仕事の大半は教授の調査を手伝い、標本を整理し、山のようなデータと格闘することだったが……。それでも今回は、単なる記録係でも荷物持ちでもない。たぶん。いや、少なくとも、そう聞かされている。

島へ近づくと、潮風の匂いが少しずつ濃くなってきた。

「今年の滞在期間はマーメイドフェスティバルと被っているから、いつもより島に観光客が多いだろうな」

「えっ。いつも夏の観光客で人だらけなのに、さらに?」

思わず口をぽかんと開けると、教授は遠くを眺めたまま、わずかに口元を緩めた。

「幸い、磯の調査日は明け方に干潮が来る。観光客が起き出す前に済ませればいい。前日は早く寝るように」

「夜更かししても起きられます」

「ベッドに入ってから、スマートフォンを2時間も見続けないように」

鋭いオビ=ワンの突っ込みに思わずうっ、とのけぞる。

「うっ……あれは遊んでいるわけではありません。論文を読んだり、調べ物をしたり」

「時折、昼間も動物のショート動画も重要な文献として査読しているようだが」

「教授、人の画面を覗くなんて最低だ!」

「#NAME1#、休憩時間に音を出しながら動画を見ているのは君だろう」

悪びれる様子もなく軽く流され、私は不満を込めて彼の横顔を睨んだ。

けれどオビ=ワンはもうこちらを見ておらず、遠くに浮かぶ島へ視線を戻していた。

「それにしても、どうして人魚なんですかね」

「マーメイドフェスティバルのことか?」

「カタリナならトビウオのイメージがある。わざわざ夜の遊覧船まで出ているくらい有名だし。フライングフィッシュフェスティバルの方が、よほど島らしいのに」

「トビウオよりも人魚の方が、伝説的で見栄えがいいというところだろう」

「では、人魚には何か根拠が?」

オビ=ワンは顎に手を当てて少し考える。

「根拠と呼べるかは分からないが、この島の周辺には昔から目撃談があるらしい。記録に残っているものだけでも、1980年代頃からだ」

「なんだ。ちゃんとゆかりがあったんですね」

「夜の沖から歌声がきこえただとか、船もないのに岸から遠く離れた場所を泳ぐ人影を見たとか……その手の話だ」

「なるほど。ネッシーみたいなご当地オカルトかあ」

私が納得して頷いても、オビ=ワンは何も答えなかった。

いつの間にか、島はすぐそこまで迫っていた。乾いた斜面の色も、海岸沿いに並ぶ建物も、肉眼ではっきりと見える。

船はゆっくりと速度を落とし、エンジンの響きがわずかに変わった。甲板の前方では、乗組員たちが接岸の準備を始めている。

ふと、私の隣でオビ=ワンが僅かに一歩踏み出し、手すりを掴んで海に身を乗り出す。

彼を横目に見る。

オビ=ワンは何か遠くのものを見ているようだった。視線の先は、港ではない。

島の手前に点在する、黒い岩礁。

そのうちの一つを見つめたまま、わずかに目を細めている。

「教授?」

返事はない。

潮に濡れた岩の陰に、何かが見えたような気がして、私も目を凝らした。

けれど逆光が水面でちらつくばかりで、何も見つけられない。

「教授」

もう一度呼びかけると、彼は少し遅れてこちらを向いた。

「……ああ、人魚の話だったな。まあ、観光地には多少の伝説があった方が、集客には都合がいいということだろう」

「えー……夢がない……」

「研究者が何でも信じていては、仕事にならないだろう?」

いつもの調子に戻ったように聞こえた。

けれど彼はそれ以上話を続けず、組んでいた腕をほどいて船室の方へ向き直った。

「私は器材を確認してくる。#NAME1#、君もそろそろ中へ戻りなさい」

「ああ、接岸するからですか?でも私の下船準備ならもう終わってますよ」

「そういう意味ではない」

「はい?」

聞き返したときには、彼はもう歩き出していた。

「教授?」

オビ=ワンは振り返らず、片手を軽く上げただけだった。その背中を見送りながら、私は首を傾げる。

何が気に障ったのだろう。

乗り気になって人魚の目撃談まで色々話してくれたのは、教授の方だったのに。

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